歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第七歩)前編

朝の冷え込みは厳しくなったが、日中は日差しも強く、快適な歩き日和りになりそう。

バス、電車を乗り継いで JR宇都宮線栗橋駅へ。

 2020年11月15日(日)無風、快晴 AM9:30 さあ、行こう。

f:id:hansui:20201116134333j:plain栗橋は、昭和32年に、栗橋町に静村・豊田村が合併し、平成22年3月23日に、

久喜市栗橋町鷲宮町・菖蒲町が合併し、栗橋町は「久喜市」となる。

前回、街道から栗橋駅へ向かった時は気付かなかったが、栗橋駅からすぐに右手へ

入る小路があり、「静御前の墓」と刻まれた石柱の建つ一角があった。

帰宅後調べた静御前についての資料。

久喜市広報歴史だより、静御前の伝承」
栗橋駅周辺の伊坂地区には、源義経の恋人であった静御前の悲恋にまつわる伝承が語り継がれています。

静御前は、舞を職業とする白拍子の磯禅師)の娘で、当代随一の白拍子と評されていました。室町時代初頭に書かれた『義経記』には、後白河法皇が雨乞いの儀式で100人の白拍子を順番に舞わせたところ、100人目の静御前が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いたことから、法皇より「日本一」と称されたと記されています。

この静御前にまつわる伊坂地区の伝承では、兄源頼朝に攻められ、奥州に逃れた義経の跡を追う途中、義経の討死を知り、悲しみのあまり病となり、文治5年(1189)9月15日に伊坂で亡くなったとされています。静御前の遺骸は、伊坂の高柳寺に埋葬されたと伝えられます。なお、高柳寺は、後に中田(現在の茨城県古河市)へ移転し、光了寺と名を改めています。光了寺には、雨乞いの儀式で与えられたとされる「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」が静御前の遺品として伝えられています。

また、栗橋北の経蔵院の本尊「地蔵菩薩像」(市指定文化財)には、静御前の持仏

との伝承が残されています。

現在、栗橋駅東口から徒歩1分の場所にある「静御前の墓」(市指定史跡)は、享和3年(1803)に勘定奉行関東郡代(ぐんだい)であった中川飛騨守(なかがわひだのかみ)忠英が、静御前の伝承を聞き、墓に墓標がないことを哀れみ建立したものです。

この「静御前の墓」には、当初は墓標の代わりとしてスギの木を植えたとの伝承があります。文化・文政期(1804・1829)に編さんされた『新編武蔵風土記稿』には、「静御前の墓」と共にスギの大木が挿絵に描かれています。このスギは、弘化3年(1846)の利根川の氾濫により枯れてしまっています。

大正12年(1923)には地元の有志によって静女古蹟保存会が結成されています。現在では静御前遺跡保存会によって、静御前の命日と伝えられる9月15日には毎年墓前祭が営まれています。静御前の伝承は今もなお地元の人々によって語り継がれ、守られています。

 静御前については別の説もあるそうで、一角に建てられていた説明文の中に、

静御前はこの地で死んだとするが、捕らえられて鎌倉に送られ、源頼朝の前で舞いを命じられ、京に帰されたという話が一般的か? その後は母の故郷の大和高田の磯野の里に帰り余生を過ごしたとも」と記されていた。

f:id:hansui:20201116135848j:plain 真ん中の石碑には「静女之墳」とあり、中川飛騨守が建てたという古い墓石は、

左手のガラスを嵌めた石室に保存されている。

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周りには幾つかの石碑が置かれていて、

左上「坐泉の歌碑」

(江戸時代の歌人、坐泉はこの地にきて静御前を偲んで読んだ句

          村人が、文化3年(1806)に建立したといわれる)

  舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ 

写左下 左「義経招魂碑」右「静女所生御曹司供養塔」

写真右 静御前百五十年祭記念碑。

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一角には、明治20年(1887年)に「静女家碑」(せいじょちょうひ)が建設

され、街道書によれば石碑には、墓域の整備が行われたことが記されていいる

そうです。

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 後にしてそのまま北へ小路を行くと、ここにも石柱があった。

この道が昔からの道のようでした。

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義経と言えば故郷北海道にも、逃れて蝦夷地へたどり着き、アイヌの酋長の娘と

 結ばれ、大酋長になったとの伝説があって、子供のころおばあちゃんから

 聞いたことがある」なんてお喋りしてるうちに、日光道中に戻り、

AM10:00、改めて栗橋宿(埼玉県久喜市)の日光道中街道散歩を始めます。

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第7宿 栗橋宿 

幸手宿より2里3町約8.3km  江戸より14里18町 約58km)

本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、宿内家数404軒、宿内人口1741人

天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳による)

 栗橋宿は利根川の舟運で栄えた。この地は関東平野の北辺に位置し、関所が置かれ

「入り鉄砲と出女」が厳しく警備された。利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとって

 おり、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。

 

街道を北へ進むと、江戸時代末期に建築された商家・橋原屋の二階建て瓦屋根の建物が建っている。店先に掲げられている屋号を記した木札には、明治時代には燃料店を営み、戦後は味噌塩など食料品も扱う、とあった。

往時の栗橋宿の面影を伝える家屋ですね。 

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少し先の右手で、カミさんが「ここの奥に石碑と案内板のようなのが建ってるわよ」

整地されたような、利根川への国道4号の堰堤が迫る空き地の奥に立っていたのは、

栗橋関所跡石碑で、そばに説明板が建っていた。

あれ、なにか場所が違うようだが??

街道書ではすぐ近くに栗橋宿本陣跡があるはずだが・・どう見渡しても見つからない。

後で神社で聞いた話では、

記念碑「栗橋関所址」は、今まで立っていた場所が進捗中の利根川堤防強化事業の

範囲内であることから、旧栗橋町商工会館跡地に仮移転をした、ということでした。 

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久喜市広報資料によると、

日光道中唯一の関所が設置されました。今日この関所は、一般的に「栗橋関所」と呼ばれていますが、江戸時代は栗橋と対岸中田(なかだ)(茨城県古河市)とを結ぶ渡船場の名称をとり、「房川渡中田御関所」と呼ばれていました。

栗橋関所が設置されたのは、江戸時代初頭で、寛永元年(1624)には、関所の警衛にあたる番士が幕府から任命され、関所の近所に定住したと伝えられています。この番士の屋敷跡は、昨年発掘調査が行われ、江戸時代末期から明治時代にかけての屋敷の礎石や茶碗等が出土しています。

栗橋関所では、常時4家の番士が交代で関所に勤務し、これらの任務にあたりました。この当時の業務や日々の出来事は、関所番士の一家である足立家に伝わった日記に詳細に記録されており、これらは現在「栗橋関所日記及び関係資料」として県の有形文化財に指定されています。

栗橋関所は、明治2年(1869)に廃止されましたが、大正13年(1924)に利根川橋の開通を記念して、近隣の人々によって、「栗橋関所址」碑が建てられ、現在は「栗橋関跡」として県の旧跡に指定されています。

 

 付近に栗橋宿の本陣を務めた池田家本陣跡と説明板と、街道書に記されてるが、

これも後で神社で聞いた話ではみんな無くなってしまった、と言っていたが

仮移転はしてないのかな?

他でもお聞きしたがわからなかった・・・

(後て調べてみたが不確定ながら、移転して建ってた関所跡碑の隣側がではないかと

 推測) 

  

 すぐ先は三又道で、現在の街道道筋は右斜めに利根川土手へ上がってゆくが、

付近一帯は利根川堤防強化改修の大規模工事中で、大型の工事重機やフェンスで囲われた一帯となっている。

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三又路突き当りに鳥居が見え、ご祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八坂神社が

あり、一帯は大規模な工事地帯になっていた。

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久喜市広報によると、

現在は大規模な利根川堤防強化工事が2019年春より始まってた。

 久喜市栗橋地区には、日本最大の流域面積を誇る利根川が流れています。
 この利根川上流部及び江戸川右岸堤防がひとたび決壊すれば、その氾濫は埼玉県内だけでなく東京都まで達し、首都圏が壊滅的な被害を受ける恐れがあります。
 このような被害が発生する恐れのある区間において、堤防の浸透に対する安全性を確保するため、国において堤防拡幅による堤防強化対策を実施しております。

現在、八坂神社周辺地区の堤防強化対策工事を実施しており、平成35年度末(2023年度末)の完成を予定している。
 今後は、盛土工事に併せて、堤防の上に八坂神社を移転させる工事と神社境内の埋蔵文化財発掘調査なども同時に実施していく予定となっております。

張ってあったパネル写真。

写真中心の森が現境内。

左手裏手側の一段高く盛り土された台地には、すでに社殿が見えていて、

2021年春までに移転するという。

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 八坂神社は現在の場所への遷座は、慶長年間(1596-1615)に利根川の大洪水に見舞われた為であると伝えられている由緒ある神社 天王様と呼ばれ親しまれてきた、

栗橋宿の総鎮守で狛犬が鯉になっている。

利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来するという。

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本殿はすでに高台へ移転したようで、仮本殿の前に狛鯉があった。

八坂神社は約400年振りに遷座する、歴史的時期に来合せたということだね。

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江戸中期設置と見られる立派な狛犬も守ってる。

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幣神の社や石碑も近々高台へ移転の様子。

御神木のケヤキ(と解説板にはあったが??の感じ、葉がちがうような)は、

どうするのだろ。

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神輿蔵が開かれ、移転の準備が始められていた。

久喜市広報

 この神輿は、八坂神社の夏祭り(神幸祭)の神輿で、「天王宮神輿文久三亥(1863)十月吉祥日」の棟札が、昭和45年(1970)の解体修理の時に発見されました。台輪の大きさは、四尺六寸五分(141cm)、高さは六尺五寸(197cm)あり、超重量級と言われ関東では大きな神輿の一つです。

神輿は、永年にわたり渡御が続けられ多くの人たちに親しまれてきました。特に、明治19年(1886)、利根川鉄橋が完成し、明治天皇行幸したおりには、河中で渡御し、勇壮な神輿振りが天覧に供されたと言い伝えられています。

 

作業をされていた若い関係者の方が、見ていってくださいと蔵内へ案内してくれ、

ゆっくりといろいろな神輿にまつわる話を聞きながら、拝見させていただいた。

超重量級と言われる神輿だそうで、昨今の例に漏れづ、当地も担ぎ手が少なくなり、

神輿好きの方々が浅草や各地から来て担ぎ上げるそうです。

あまりにもの重さに、来なくなった担ぎ手も多いんだとか。

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たしかに重量感のある威厳をもった神輿でしたね。

今年は例によって祭りが中止になったそうです。

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神社を出て、街道書にある経蔵院と関所番士屋敷跡を捜し少し歩き回ったが

全く判らず、通りかかった方に場所を聞いたら、経蔵院へは近くを通るからと

案内していただいた。ありがとうございます。

途中に木道標が一か所あったが結構小路を行くので、こっれではたどり着けないな・・

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ようやくたどり着いた経蔵院。

病に倒れた静御前が当寺で養生に努めたが、儚く生涯を閉じた、と街道書にある。

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隣に立つ説明板

栗橋町指定文化財 本尊地蔵菩薩
    昭和三十三年三月二十九日指定
 この寺は、貞観年代の慈覚大師の創建と言われ、最勝玉院とも呼ばれる台密修練の道場であった。
 保元のころ、願行坊宥俊阿闍梨(がんこうぼうにうしゅんあじゃり)が下河辺の荘司であった行平という人の寄付によって再び隆盛した。鎌倉時代、伊予守源義経の愛妾静御前は、奥州にいる義経を慕って侍女琴柱と僕僮を伴い旅に出たが、途中義経の悲報を聞いて、落胆のあまり病気になった。この寺で養生につとめたが、露のようにはかない生涯をとじた。琴柱は髪をおとし、西向尼(さいこうに)と名のって静を弔うために、京都嵯峨野から静御前の御持仏である地蔵菩薩を持ち帰った。その後、西向尼が没してから本尊としてこの寺に祭った。
 この仏像は漆乾製(和紙と漆)の立像で日本で三体だけという数少ない貴重な文化財である。
     栗橋町教育委員会

 

本堂前に年代物の石仏、墓石などが並び、隣には香取神社が祀られていた。

境内内のマンホール蓋には舞姿の静御前がデザインされていた。

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寺入口にはこれも江戸時代の天保と彫られた石仏石塔が建っていた。

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すぐそばに「関所番士屋敷跡」があったそうだが今は工事中で確認できない。

お寺を案内してくれた方に聞き漏らしてしまった。

久喜市資料では、

利根川上流河川事務所の東側近くに関所番士屋敷跡があった。ここは、利根川強化堤防により、埋め立てられる予定という、という記述があったので、香取神社後ろ側付近に跡地はあったようだ。

久喜市栗橋町の資料によると
 関所番士屋敷は、寛永元年(一六二四)に栗橋関所番士の住まいとして、江戸幕府が設けたものである。
 関所番士の定員は四人で、これを二組に分け、毎日明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)まで、二人一組五日間交代で勤務していた。
 維新期最終の番士は、加藤、足立、島田、富田の四家であった。手当は二十俵二人扶持は、一日五合の割合で、二人扶持は約十俵に当たる。扶持は、幸手宿本陣中村家から送米されていた。
  加藤家、島田家も現存しているが、富田家は、明治二年の関所廃止とともに東京へ移転している。
 各屋敷地とも高く盛土し、いずれも約千四百平方メートルである。
 なお、番士の墓は、常薫寺、深広寺にある。
 

街道に戻ります。

そういえば脇本陣や旅籠跡類も、それらしきものもは見つけられなかった。

八坂神社入り口へ戻り、利根川渡の左折して利根川土手道を登ります。

関所跡碑はかって土手道の途中にあったようです。 

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 土手上へでて川側へ交差点で渡り、右手に進んで利根川南詰めから川を渡ります。

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橋桁下に釣り人、なにが釣れるのかな?

危険注意看板はマムシ!!

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利根川を渡る橋は上り、下り二本の橋が架かていて、右手からの国道4号と合わさる。

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坂東太郎とも呼ばれた利根川は、群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つ、

大水上山(標高1,840m)にその源を発し、本庄市付近で烏川に合流、

群馬県・埼玉県境を流れる。

江戸川を分流させた後はおおむね茨城県と千葉県の県境を流れ、茨城県神栖市

千葉県銚子市の境において太平洋(鹿島灘)へと注ぐ。

江戸時代以前は大落(おおおとし)古利根川が本流の下流路で東京湾に注いだが、

度重なる河川改修によって現在の流路となっている

(鉄橋を渡る貨物列車、流れの真ん中に立つ流木かな?)

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半分くらいで埼玉、茨城の県境で下総の国(現在は常陸の国)へ入ります。

埼玉の県鳥はシラコバト、茨城はキジのようだ。

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15分ほど利根川橋を渡れば中田宿。

利根川北詰めで左手へ土手道を下って、右手へ北上して行く日光道中

江戸時代には橋は無く、南詰め付近から渡し船で割ったいたそうで「房川の渡し」

と言われていた。

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下って右手へ中田宿へ入ってゆきます。

曲がり向こう角に 「房川(ぼうせん)の渡し」と当初中田宿の江戸口にあり、

対岸の栗橋宿側に移転した、関所跡の説明板があったが、霞んでまったく判読不能

街道書には、

「舟渡しであった、将軍日光社参の際は五十一艘の舟を並べた船橋が架橋がされた。

房川(ぼうせん)の名の由来は、元栗橋に宝泉寺という法華寺があったことにより、

「坊前の渡し」と呼ばれ、のちに転訛し房川(ぼうせん)となった」と記されていた。

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橋の渡り詰めを左に入ると日光道中

少し先の交差点を渡ったか櫓の下に中田宿解説板が立っている。

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(なんとも解説文だらけのブログだね)

 後半へ続く、