(3年間の写真保存を兼ねた旅紀行を、下書保存作成していたブログ)
奥の院入口の一の橋へ着きました。
高野山中、いや仏教の世界の中でももっと大切な聖域になるようです。
一の橋から先、弘法大師御廟へ2km続く参道は、は樹齢1000年を超える
杉や高野槙の巨木に囲まれ、この参道沿いには、おびただしい供養塔や祈念碑、
慰霊碑、墓石がたち並び、その数は20万基を超えると言われ、
今もその数は増え続けているそうです。
特に鎌倉期以後は、戦国大名や財力のある支配者層、
また江戸期、徳川家所縁や各大名家が、亡き人を慰霊するため巨大な石塔が
多数造られたようです。
名の知られた戦国武将、大名など供養塔や祈念碑、慰霊碑が立ち並んでます。
加賀・前田家
奥州・伊達家
長州・毛利家
薩摩・島津家・・
などなど・・
その数は20万基超と言われる、まさに死者の霊界が延々と続いてます。
紀州藩主から将軍家を継いだ、
そして・・こんな墓所も・・
1km弱進むとまた川が流れ橋があり、中の橋です。
手前に歌舞伎初代市川団十郎供養碑。
橋を渡ってすぐ左側に、汗かき地蔵と姿見の井戸があります。
井戸を覗き込み、自分の姿が映らない人は3年以内にお迎えが来るという、
怖〜い言い伝えがあります。
(おっ見えたね〜・・・ふふふ・・有難し。)
まさに幽玄の
(この世)と(あの世)が交わる場所
忠臣蔵の大名も・・
関ヶ原で敗れし石田光成・・
一代の風雲児・織田信長も・・・
天下の夢破れし明智光秀・・・
そして天下人となりし豊臣家の人々も・・
おや、有って良いはずの家康は??
それは別の場所に「徳川家霊台」として、徳川家康・徳川秀忠の霊屋が有るんです。
(今回は寄りませんでした。)
そして名もなき民は、石仏や石塔を背負い重さに耐えながら高野山に登り、
此の地に辿り着き・・血縁者達の来世の安楽を祈ったいわれています。
(御廟そばに無縁供養塔があります)
死せるものは みな同じく聖なる地、宗派を越えた仏教の霊場
「極楽」「浄土」への再生を願う。
我が家の浄土宗、圓光大師法然上人様の廟もあり、手を合わせます。
参道は奥へ奥へと続き・・
御廟で入定している弘法大師の食事を作る、御供所(ごくしょ)に着く
小一時間もかけて御廟橋に到着しました。
この橋から先はもっとも重要な聖地とされ、喫煙はもちろん撮影なども
禁止されてます。
御廟橋わきにの水向地蔵では地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩などに水をかけながら、
なき人々の冥福を祈ったあとに橋を渡ります。
清らかな気持ちで渡ります
橋は36枚の橋板があり、更に橋全体を1枚と数えて、
金剛界の三十七尊を表しています。
御廟橋を渡るとそこからは最も神聖な聖域、
(以後撮影などは出来ません)
(パンフ拝借画)
御廟の橋の100メートル先、石段を昇ると弘法大師御廟の手前に建つ燈籠堂です。
高野山第二世の真然大徳(しんぜんだいとく)が建立し、治安3年(1023年)に
藤原道長が拡張したお堂です。
堂内には祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、貧女の一燈(いっとう)、
昭和時代に献じられた昭和燈が「消えずの火」として燃え続けています。
灯籠堂を左手に出て奥に廻ると、奥には大師様御入定の御廟所
弘法大師が眠る御廟(ごびょう)が静かに建っています。
静かに手を合わせます
蝉の声がシャワーのように降り注いでるはずなのに、
何故か独特の静寂の包まれてるように感じます。
燈籠堂の裏手、弘法大師御廟の左側に「納骨堂」があります。
弘法大師が入定した聖地に納骨することは、古くから行われていて、
毎年全国から霊骨や遺髪(いはつ)が納められるそうです。
また、燈籠堂の地下にも、奥の院に納骨した方が奉納された、5万体もの小さな
弘法大師像が並べられています。
納骨された方については記録が残されているそうで、かく像の下には番号が
刻まれていました。
お参りを済ませなにかほっとした安らぎを覚えながら、奥の院を後にしました。
生きる力をいただいて・・・
一の橋からはバスを利用して、町の中心部金剛峯寺前に戻りました。
最後に、是非寄りたいと思っていた霊宝館へ寄りました。
高野山内の貴重な文化遺産を保存展観する施設として大正10年(1921年)に
金剛峯寺によって開設されました。
現在では国宝21件、重要文化財143件、和歌山県指定文化財16件、
重要美術品2件などを収蔵し、5万点以上を数える収蔵量を有するそうです。
そうなんです、高野山内の国宝、重要文化財は此処を訪れなければ
拝観する機会が無いんですね。
もちろん写真撮影はできません、が商業用の場合いには申請をし手続きをして
許可をもらうようです。
お昼近くまで過ごした高野山を下ります。
今夜の宿泊は滋賀県・彦根のホテル、途中に法隆寺へ寄り道しながら
旅は続きます・・