歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第27回    須原宿・野尻宿へ 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

途切れていた信濃の国・和田宿、下諏訪間の中山道最大の難所と伝えられる

和田峠を5月25日、無事越えることが出来、街道を一本に継ぐことが

出来ました。

旅というより山登り、で翌日は足はパンパンに張ってましたが、

こんな時は、もっと歩いたほうがいい、と変な理由をつけて、

余勢を駆って、木曽路の街道旅へと出かけます。

6月2日(土)

目覚まし無しでも予定時刻に起床、洗顔を済ませ即マイカーを駆って出発。

中央高速諏訪SAで諏訪湖を眺めながら、ワンタンメンで朝食に。

そのとき、衝撃的な事が起きました。

湖畔を眺める窓際に腰を据えていたのですが、軒下に燕の巣があるらしく、

数羽が飛び交い出入りしていて、そこへカラスが一羽やってきて

フェンスに止り、軒下を見上げてました。

突然カラスが飛び上がり、軒下へ・・なんと、巣からヒナを咥えて飛び去ったのです。

すぐ燕も数羽追いかけて行きましたが、・・・

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AM8:55

長野県、木祖の野尻駅前到着。

イカーを置かせていただいて前回足止めの二駅戻った倉本駅を目指して

AM8:26発の電車に乗りました。

なんと、ホームで出会った東京の御夫婦も、倉本から野尻までを旅する方でした。

前日、木曽福島から歩いて、上松の目覚め床の宿に宿泊したそうです。

ご夫婦も継ぎ足し歩きで中山道を歩いてるそうで、私達と同じく難所の峠越え、

碓氷峠和田峠は飛ばしたりしていたそうでした。

碓氷峠越えの話しでは交通や宿の問題から、某社の街道旅ツアーを利用されたが、

大雨に有ってしまい下着までずぶぬれで、えらい目に合った難儀な旅だった

と話してましたが、これも思い出峠越え、楽しそうに語っていたのが印象的でしたね。

 

(5月5日第25回足止め)

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お気をつけて、と倉本駅でご夫婦は先行し、私たちは前回足止め地にて

出発ショット。

今日の道筋、倉本駅前から約6.5kmの江戸から39番目、須原宿
その先7.5kmの40番目、野尻宿まで約14km(約3里半)です。
AM8:50、27回目の街道旅に足を進めます。

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 中央線を潜り東側へ抜け、ヘアピン状に曲がりながら、緩い坂道を上って行きます。

左手に先ほど下車した倉本駅にホームが見えてます。

曲がり角の標識は「←登山道 空木岳・木曽殿」で中山道の文字は有りません。

中央アルプスへの登山口だったんですね。

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鉄道で分断され大きく迂回してしてますが、本来の中山道へは倉本駅

福島寄りを通ってくる、左手(写真右)からの道に出会い旧中山道が復帰します。

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消滅していた旧中山道が復活し、少し先は左手に道筋も見えない、草茂る空木岳

の登山道が有りました。

空木岳は、木曽駒ヶ岳の南方、中央アルプスのほぼ中央に位置する百名山

中央アルプスでは木曽駒ヶ岳に次ぐ高峰で、標高は2864m。

ここから約10時間以上かかるそうですが、ちょっと厳しいコースですね。

下山に使われることが多いのでは。

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雪の下が可愛い顔を覗かせてます。

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屋号らしき札が掛かってますが、意味が??

屋号でなく表札?上の矢高さんもあるのかな?

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旧道らしいのどかな道を行きます。

竹林のところで左に曲がると、斜面上に天王様の石仏群とも呼ばれている

牛頭天王」と刻まれた文化6年(1809年)建立の常夜燈、その後方に

享保12年(1727年)建立の「除三尺之罪」と刻まれてた庚申塔が建ち説明板が

ありました。

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「除三尺之罪」の判りやすい解説板ですね。

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その先で道標に導かれ、右の心地よい草道を下りて行くとすぐに、大沢川の

ほとりに出ます。f:id:hansui:20180604061014j:plain

旧道は30m程左から大沢川を跨いで、国道19号線のももやま商店付近に直線的に

あったが、今は橋もなく通れないので、右に行って鉄道鉄橋下を潜り国道へ出る。

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交通量が多くて、向こう側には渡ることが出来ませんでしたが、暫らく行くと

国道右手の家の脇に、木々に囲まれれて江戸より74番目、倉本一里塚の跡碑が

確認できました。

ここも地域は上松で、上松内で北から四番目の一里塚。

一つの町村で四つも一里塚がある(沓掛・上松・萩原・倉本)のは上松だけ。
もともとは現在地より南へ20mほどの地点に左右両塚があったそうです。 

白色壁の民家が資料にあった「一里塚」を屋号とした家の様です。

ちなみに、この辺は皆屋号が残っているそうで「上の茶屋」「下の茶屋」という

屋号の家が残っているそうです。

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すこし先の池の尻信号で国道と分かれて、右斜めに通称、金吾坂下りて行く。

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 右に入ると池の尻集落で往時「池の尻立場」があった場所です。 

家々は屋号札をさげていると街道書に在りましたが、これも屋号かな、

「梅のぼく」「一家」「池尻の大屋」「すみれ」

何を商っていたのでしょうか???

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右手遠くに白い桃山発電所を眺め、f:id:hansui:20180604110011j:plain

少し進むと街道は左手へ分岐し、やがて坂の草道を上がって行きます。

左手の小さな畑に植えられていた花は「なんの花」かな??
ラッキョウにも似てますね。 行者ニンニクかな?f:id:hansui:20180604110440j:plain

右下に養殖池を見、廃墟となってるドライブインの脇を抜けると国道19号線に

合流します。

直ぐに境の沢橋があり、右側に標高(588m)標柱が建っていて、

この橋が上松町と大桑町の境で、沢橋を渡るとここから大桑町に入ります。

和田峠の1600mから、1週間ごに1000m下って歩いてるんですね。

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 のんびりと境の沢橋から、合流した国道右手を約200mほど行きます。

この付近からくるみの樹が多いですね。

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右側に木曽のお酒木曽路の大きな看板

(なぜか西向きで、京側からしか見えません)

   が建ち国道左手に細い道が通っています。

その道が街道書にある、エドヒガン桜旧道の東口痕跡のようです。

街道書では、

*左手へ国道を渡り、中央線を跨ぐ、草道にから・・うんぬん・・進む・・

と「エドヒガン桜旧道」のことが記載されてますが、

「但し、JR中央線の横断は禁止されてます」との記載はあり、実際に線路際に

 禁止看板も建ってます。

(線路がカーブしているため運転手からも見えないそうで、本数は少ないとはいえ

 確かに危険な道筋ですね。旅人は結構渡ってしまうようですが)

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エドヒガン桜旧道へは入りませんでしたが、線路の東側には上郷集落があり、

養殖池などがあるようです。

ちなみに資料によれば、

大桑村天然記念物 樹齢 不明 樹高 13.5m 幹周5.8m、

「国道からはずれた旧道は、木橋で沢を渡り往時の旅が偲ばれる。その街道脇に

エドヒガンの古木がある。昔からこの木の下を行き来する旅人を見てきた古桜だ」

とあります。

(資料写真)

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国道にコミュニティーバスの停留所がありました。

この路線にも大きそうな病院名があります。

乗合タクシーバスもあるようで、今日は土曜日、運休日でした。

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バス停から200m程行き、阿寺渓谷標識の建つところからの右手の道が

街道です。

木曽川沿いを5分ほどで国道へ合流すると

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道の左右が擁壁状になっていて、両側の擁壁の高さからして国道19号線は

堀切道で、右手の擁壁上の土道が本来の旧道痕跡の様ですが、草が生い茂っている

ため、止むなく歩道のない国道端を歩きます。

すぐ先、左手の擁壁上に見事な枝垂れ桜が聳えています。

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歩道がなく日差しも強まったので、日陰の多い左手に渡り、車に注意しながら

足を進めます。

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道端にはクルミの樹が多く見られ、手の届きそうなところに実がなってます。

実りの時に旅したら、くるみ拾いをしながらあるけそう。

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こんなの探しながらの旅歩き、楽しいですね~

何故かオダマキ、もの凄い花付き、ナルコユリマムシグサかな、いい姿

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国道を800m程進むと名古屋119kmの距離表が現れ、

左手に「神明社、夫婦杉」の小さな看板とが鉄路を潜るトンネルがありました。

距離とタイムを目的にした旅でしょうか、単独行の旅人が、わき目も振らず

急ぎ足で去って行きました。

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トンネルを抜けると左手に神明社の石の鳥居が建ち、右手に巨大な杉が

立ってます。

さらに鳥居をくぐり境内の石段左手に、これまた超巨大な夫婦杉がありました。

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大きいですよね~、夫婦杉を含め3本の大杉を見ることが出来ました。

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 夫婦杉入口から100mくら行くと、左手土手上に車道のガードレールが見え、

「糸瀬山登山口」の看板が建っています。

看板下の草道を上がって車道に出ますが、車が入れるのは40mほど先からです。

現在、先ほどのエドヒガン桜を見るにはこの道から入って行くそうです。

(相当の戻り道にになるので、立ち寄りしません)

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すぐ先が猿沢橋。橋の側の温度計は28℃・・わあ!渡った瞬間、29℃表示に!

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猿沢付近から須原宿手前までかっての中山道は、エゲ坂の旧道と言われる道が、

山道として僅かにその体裁を保っているそうですが、長い期間ほとんど人が入って

いなため藪に阻まれ、廃道と化してるのだそうです。

猿沢橋から200m程国道を行くと、歩道案内板が建ち、左手中央線と国道の

間の側道へ街道は続いて行きます。道脇に中山道石碑も立ってます。

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右下に国道、さらに右下は木曽川の流れ。

鉄道線の擁壁や木々の茂りもあって日差しが遮られ、ちょっと嬉しい側道です。

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 側道を500mほど行き、民家の先の宮の沢橋を渡り国道へ合流し、

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さらに 約100m進むと国道から左手に分かれる分岐があり、

「左 中山道 須原宿へ」 と刻まれた標石が建ってます。

その後ろの伸び放題に繁った草木の中に隠されて、「須原宿の街並み案内」や、

「水屋の里・須原」等の案内板が建ってます。

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ちょっと左側に回ると、草に埋もれて、江戸より75番目の「須原の一里塚跡」碑が

ちょこんとありました。

「あれ、街道書はもう100mくらい国道を進むになってるわよ」のカミさん。

たしかに、この分岐を左に上って行くと須原宿須原駅へ行くようですが、

持参街道書では、
「江戸方面からは左の県道へはいらず、国道を直進する」
さらに「国道19号線を少し進んだところで、左へ上がる細道が旧道であり、
入り口に小さな 「中山道」 の道標がある。この旧道を進むと民家の間を通って
須原駅の少し先に出てくる」と記されてます。
事前の下調べの4年ほど前の資料には、「一里塚跡碑は須原駅正面にある」
とも記載があるのです。

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 左か、右か、ちょっと迷いましたが、トイレ休憩もしたいので、

カミさんの「一旦県道へ入り須原駅前行き、国道からの細道を確認しましょう」

との意見に従うことに。(素直だな~)

と県道へ入り、100m程行くと駅前に出ました。

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駅前広場の手前、金網フェンスに後ろにに建てられている石碑は

幸田露伴文学碑」。 文学碑によると

「明治22年、木曽路を旅した幸田露伴須原宿に泊まり、その縁で出世作

風流仏』を著し、文中には桜の花漬のことも記されている」とか。

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駅正面に、露伴の分中にも出てくる、名物「桜の花漬け」を商う大和屋があり、

街道書では一里塚跡木標識があったはずですが、なさそうです。

(ただし、分岐のところが本来の一里塚があったところであり、

 元のところに碑を立て直した、との説があります)

なにか分岐のところの方が合ってる感じがしますね。 

それにしても碑の有ったところは、草ぼうぼうだったね。

(街道書も書かれた時期がちょいと古くなったかな?)

桜の花漬て桜茶のことかな。

中山道を歩く旅人に人気の秘密は

   「すばらしいぞえ須原の桜、つけてにえ湯の中で咲く」

 と唄われた「桜の花漬」を売っているからである、と。

 桜の花漬はどこでも売っているが、大和屋の花漬は江戸時代からの

須原名物で、しかも自家製。

桜花漬は八分咲きの八重桜を梅酢と食塩だけで漬け上げ、色あざやかで香りも

豊かで、お湯の中に花が美しく咲き開くため「桜茶」として、お祝い事によく用い

られますね。

むかしむかしまだ若かったころ、何かの折に上司に「二回ほど桜茶を飲んだ」と

話をしたら、 「お見合いしたんだね、どうだったかな」とからかわれたことが

あったけ。(カミさんは私は一回だけよ!て)

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なんてじゃれ話をしながら行くと、右手に高札場跡の立て札だけが立っていて、

後ろは石垣で一段低くなっていて、先ほどの分岐の国道をもう少し辿り、左手へ上ってくる須原宿への道筋は、この付近に出てきて旧中山道須原宿江戸口だったようですね。(この付近から方々に旅籠行灯があって、いい風情です)

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高札場跡のすぐ先に「大桑民族資料館」の道案内標識があり、右下へ階段を行く

案内になってます。持参街道書の道筋はここへ出るように書かれてました。

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階段を下りて道筋を逆にたどってみると、国道から斜め左へ来る廃屋?前の

草道になってしまった道筋があり、その道が本来の中山道須原宿への道だった

ことが判ります。

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宿場の街並みへ戻ります。

須原宿は、一つ手前の上松宿から、3里9町(12、67km)あります。

木曽路案内によれば、

須原宿は江戸戸日本橋から39番目の宿場で、天保14年(1843年)には

人口748人、家数104軒、本陣1、脇本陣1、旅籠24軒。

須原宿は正徳5年(1715年)に木曽川の氾濫で流失し、

享保2年(1717年)に現在地へ移転し、木曽谷の中ででは一番古くに栄えた

歴史ある宿場町です。

広々とした街道に面して格子戸の家が連なり、宿場情緒を携えた静かなたずまい。

宿内には丸太をくりぬいて作られた水舟という水場が点在し、今も昔と変わらず

清水がこんこんと落ちている。

宿場の京側外れには桝形跡である鍵屋の坂があり、道の中央に用水路が配され

宿場町の原風景を残している* とあります。

大きな川沿いの宿場町は洪水を避けるため、ほとんど一段高い所に営まれて

いますね。

左手空き地のところが、木村本陣の跡地で、木札が建ってます。

(ほんのつい最近まで家屋があったようですが、今は空き地になってました)

う~ん、時代の流れは速いんだね~・・・

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 本陣跡の先には、旧脇本陣の西尾家があり、塀の前に板碑が建っている。
西尾家は木曽義仲の家臣であり、中山道の宿場が出来るのに伴い須原宿脇本陣

問屋、庄屋を兼ねてきた家柄です。
酒造業は江戸時代から続いている銘酒 「木曽のかけはし」 を生み出している

蔵元でもあります。

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脇本陣の向かい側には水船があり、その後ろに正岡子規の歌碑が建っている。

正岡子規は明治24年(1891年)に須原を訪れた。
歌碑には、「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし」 と

刻まれている。

明治20年代は鉄道もなく、露伴も子規も長旅をしてきたんですね。

須原駅前を過ぎると、街並みのいたるところに水船(水場)が見られるように

なります。

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脇本陣の先に清水医院跡がある。
黒板塀の前の立札には「島崎藤村の ”ある女の生涯” の舞台となった清水医院跡。

建物は愛知県犬山市明治村の中心地に移転、保存されている」 と記されている。

藤村の姉 園も入院したことがあるのだとか。

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医院跡の板塀前に、ミュージック仕掛け?がありました。

観光案内によると、大桑村指定無形文化財「須原ばねそ」(はね踊り)で

*須原ばねそは古くから伝わる郷土民謡盆踊りとして

唄い踊られる地唄で、はね踊るところから由来。 嘉慶年間より京都から伝承した

庶民文化です。 「よいこれ」・「竹の切株」・「甚句」の三種があり、いずれも

楽器を用いない地唄でこれを称して「須原ばねそ」と呼んでます* ありました。

水色の3っのボタンは左から押すと、まずは「ご挨拶」二つ目は「唄」

三っ目は律儀に、「お別れの御挨拶」結構な音量で静かな宿場街に流れます。

はあ~~・・・

長そうなので唄は一節だけ拝聴し、ちゃんと最後の挨拶も受けました。

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と、民謡を楽しんで、清水医院跡の少し先左手に文化10年(1813)の常夜燈が

建ってます。正面には秋葉大権現、横に金毘羅大権現と刻まれていて、常夜燈の

側の幟柱のところを左へ入ると、須原宿の鎮守、鹿島神社仮宮がある。

鹿島神社須原宿の鎮守ですが、鉄道線を越えて600m程の山裾にあるようです)

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広重画・須原宿は、右手に大杉が描かれてることから鹿島神社門前の様子を

描いてる、と言われてるようです。(他説もありますね)

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右手に大きな石門柱が建ってます。

白い札には「昭和二年建立」と「大桑村立須原小学校」と読めました。

この村も小学校は今はなくなり、村立の保育園がありました。

平成15年、野尻小学校・大桑小学校・須原小学校が統合し、野尻に「大桑小学校」

が開校してるそうです。

えっ、野尻まで7キロ以上も通学してる!

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その向かい側は、下松田屋の屋号が掲げられた家の前に立派な水船がある。
この水船の覆屋の軒には木札があり、「水船の水のきをめぐりて」 と歌われている

ように須原は中山道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれたこの

水船もその面影を残す」 と記されている。 

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旧旅籠吉田屋明治2年(1869年)の建物で、ここにも水船があります。 

(近年は民宿すはら、でしたが民宿も廃業したそうです)

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街道左手の桝形手前に、旧旅籠柏屋がある。

軒下には、大阪を講元に京都・江戸を世話方とする 「三都講」 、御嶽講の一つ

宮丸講の 「宮丸北之組」 の看板が下がっており、江戸期の指定旅館と

いうわけですね。

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旧旅籠柏屋のすぐ先が桝形で、中山道は(鍵)の屋号紋をつけた蔵が建つ家の

角から、右手に曲がり「鍵屋の坂」を下りますが、坂道は何か改修のような

工事をしてました。

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その少し先にある、永享2年(1430年)創建、臨済宗妙心寺派

木曽三大寺の中でも最古刹の定勝寺へ立ち寄りします。

桝形を過ぎてすぐが定勝寺へです。

f:id:hansui:20180605043626j:plain「山門」「本堂」「庫裏」の三建築が国の重要文化財に指定されています。

山門

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本堂(なぜか、本堂を撮影してなかったのでパンフより)

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庫裡

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定勝寺には、国の重要文化財指定の木曽家縁の資料等が保管されており、

その中には日本で最初の「そばきり」についての文献、天正2年の定勝寺仏殿事

記録があるそうです。

戦国時代木曽谷を支配した戦国大名木曽義昌」の位牌が安置されているほか、

東洋一の木曽ヒノキダルマ座像があるそうですが、覗けませんでしたので、

パンフから(左上)

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「鶴亀蓬莱庭園」奥が亀、手前が鶴のようですね。

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山門を出て、AM11:40

朝食が早かったので、まだ昼前ですがいつも持参の補助食品でお昼タイム。

宿内では食事処が見られなかったので、門前脇の水船の花壇前のベンチを借りして。

水船の里の図がありましたが、宿入り口付近にもあったかな?

図によると水船は宿内に六ケ所あるようです。

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休憩してる間にも、西から東から何人もの旅人が、声を掛け合い挨拶を交わして、

通り過ぎて行きました。

外国の方は二人だけでしたね。

と、ここまで旅の記録写真を整理しながらブログを書き進めてきて、

あれ!!写真が無いが・・・

この後、おおきなミスをしていたことに気が付きました・・・・・

 

後半へ続きます。