歩いて再び京の都へ 中山道69次、夫婦歩き旅 第38回 2日目 前編

4月5日に再開した、中山道一日目の旅は近江武佐宿・京口から約4里12km、

なんとも超牛歩の旅人二人で野州須駅へ到着し足止め。

 

明けて6日は近江八幡から電車で野州駅へ。

令和4年4月6日

AM9:30 今日も快晴の春日和、広がる青空の下に二日目の旅を始めました。

駅前より東へ10分ほど道をたどり、昨日の新幹線のガードをくぐり街道は左手へ

出て、AM9:40,中山道へ復帰し、約4km強先の守山宿を目指します。

さらに約6k先、今回の街道旅の目的地・草津宿は、東海道から分岐する中山道

起着地で、私たちの中山道歩き旅の終着宿へ。

10分ほど行くと五差路へ出、横断歩道を渡ると野州小学校。

桜咲く学校正門わきでは、ピカピカの一年生数人グループが記念写真中。

野洲小学校正門傍に「中山道・外和木の標(しるべ)」碑と説明版があり、

説明板には概要で

「このあたりは中山道朝鮮人街道の追分に当たり、かつては「外和木」と呼ばれて

 いたため、この名が後世に残るようにと建てられました」云々と記されていた。

正門わきには中山道の行燈常夜燈を載せた野州道標碑も置かれていた。

小学校から5分ほど行くと、3差路に「朝鮮人街道」と記された道標がある。

朝鮮人街道は朝鮮通信使が通った道で、ここで中山道と分かれ近江八幡を経由し、

安土、彦根をへて鳥居本で再び中山道に合流する。

(写真右、左手が朝鮮人街道)

3差路からすぐ先の桜咲く用水路の奥には神亀元年(724年)勧請されたという

行事神社、

行事神社には見たことが無い珍しい注連縄が下がっていた。

調べた神社やしめ縄についての解説の中に、

滋賀県の湖東地方や湖南地方には独特の形の勧請縄が吊るされ、

その縄の中央にトリクグラズと呼ばれる象徴的なシンボルが吊るされることがある。
勧請縄は「道切り」とも呼ばれ、集落の入口や村境、神社の鳥居や参道に吊るされる

ことが多く、集落の中へ入ろうとする魔や疫病など悪いものの侵入を防ぐためのもの

とされます。

ある意味では「野神さん」や「道祖神」に近いものがある。

勧請縄やトリクグラズは集落によってそれぞれ独自の形が継承されており、

同じものは見られないようです。
勧請縄やトリクグラズは集落の入口や辻で村人を守る結界ともいえる。

全国的には「道切り」と言われているもで村に悪霊や疫病神などが入ぬよう、

縄を張り境を守る標(しるし)を村の境に置いたという。

それが発展して、五穀豊穣、村内安全などの願いが込められるようになった。

注連縄の中央の標は、地方により造りが異なっている」

という解説文があった。

その先には「背くらべ地蔵」と呼ばれる大小の地蔵尊が置かれている。

説明版によれば

「この背くらべ地蔵は鎌倉時代のもので、東山道を行く旅人の道中を守った地蔵で

 ある。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば

 一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるように

 なった。」とある。

10分ほど先の十字路にある蓮照寺には、「右中山道 左八まんみち」と

彫られ、裏面には「享保四年」と彫られている朝鮮人街道追分にあった道標や、

淀藩領界石、北淀藩領境界石など3本が建っていた。

(八まんみちは朝鮮人街道のことをいう)

蓮照寺の斜め向かいには、茅葺屋根の原型をとどめた本堂の唯心寺があった。

すぐ先左手にお堂があり、街道書には『四ツ家八幡神社」とあるが神社らしくない

と思ったら、その裏手に神社があった。

街道書には、源頼義八幡宮を祀ったとあるが、詳しい謂れはわからなかった。

板塀にかこまれた境内には境内社もあるが、中に入ることは出来ないように

なっていた。

手前のお堂は観音堂か地蔵度にようだが、お堂内の厨子が閉じられていて分らなかた。

なにか不明ばかりの、お堂と神社だな・・・

地域は旧野州村で、八幡神社から4・5分ほど行くと左手に、街道に面して大書きの

酒名を記した門扉構の建物は宇野英明(うのひであき)酒造場。

道を挟んで斜め向かいにある宇野酒造の分家になるようです。

路の右手には数基の道祖神が置かれていた。

すぐ先で東海道線の高架をくぐるとすぐに、「十輪院」という小さなお堂がある。

お堂の裏には野州を詠った芭蕉の句碑が置かれている、と街道書にはあった。

明暦3年(1657年)開創と言われるそうな。

すぐ先が野洲川で、お堂前の常夜灯は日が暮れると旅人の為に灯が燈ったという。

道を挟んだ左手には石仏石塔群。

道路整備や、河川工事などの際集めらrたのかな?

すぐ先でという、野洲川(やすがわ)を渡ります。

野洲川鈴鹿山脈御在所岳に源を発し、琵琶湖へ注ぐ河川で近江(滋賀県

最大の川。昔は河口に八つの州があり八州川と呼ばれていた。

江戸期の通常は仮橋で、増水時は舟渡だったという。

橋上から近江富士と詠われる三上山がよく見えた、があれ?写真が無い・

野洲川橋を渡るとすぐ先で守山市にはいり、

しばらく行くと馬路石邊(うまじいそべ)神社の社標石柱があり、桜並木の参道が

奥へと続いてます。

神社は天武天皇の御代、白鳳3年(663年)に創祀されたいう古社で、

古事記日本書紀に登場する建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)と

大国主命(おおくにぬしのみこと)が御祭神という。

境内までは行きませんでしたが、ちょいと桜散歩。

街道に戻り15分ほど行くと吉見小学校交差点左手に益須寺跡の解説板が建っていた。日本書紀にも著される日本最初の療養施設があった寺跡とのこと。

信号を渡った右手には吉見村高札場跡案内版があり、

ここは吉見加宿と守山宿の境で、江戸から127里30町 約502km、

第67宿目、守山宿へ到着。

第67宿 守山宿・宿内家数 415軒、 宿内人数 1700人

    本陣2、脇本陣1、旅籠30

守山宿解説文によれば、

「「京発ち守山泊り」と言われた守山宿は、中山道東下りの旅人が最初に泊まった

 宿場で、 旅籠が軒をつらね大変な賑わいだったようだ。

 守山という地名は街道沿いに今も残る
 比叡山延暦寺の鬼門にあたる東方を守るため東門院が創建され、守山寺お言われた

 ことが守山の語源になたという。

 守山は古来東山道の宿駅として栄え、江戸時代に東山道中山道に改められ

 江戸時代の初期寛永十九年(1642)に徳川幕府により正式に中山道の宿駅として

 制札が下された。中山道は板橋宿から守山宿までの六十七次で守山は最終宿駅で

 あった。守山の地名は比叡山延暦寺の東の関門として東門院が創建されたことに

 由来する。江戸時代、旅人の一日の行程は八里(約31キロ)から十里(約39キロ)

 であった。

 後に東の吉見、西の今宿が加宿され更に繫栄した。」とある。

中編へ続きます。

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次 夫婦歩き旅 第38回 1日目 後編

1日目後半へ入ります。

道の駅・竜王かがみの里で遅い昼食をとり、ゆっくりと足休めし時刻も午後3時。

道の駅近くには鉄道駅は無いが、宿の有る近江八幡へのバス便があるので、

足止めにするか進むかの迷い何処。

武佐宿からまだわずか6.4kしか歩いてないし、日も長くなったしあと3時間は

歩けるし、脚もまだOKてことで、6km先の鉄道駅の有る野州まで

進むことにする。

道の駅を出て右手、すぐの道向こう側に「源義経元服の池」鏡池があり石碑が

置かれている。

東下りの途中、当鏡の宿にて元服加冠の儀を行う。その時使いし水の池なり」

と街道書に記されてる。

平家の追手が稚児姿の牛若丸を探していると聞いて、元服を決意し、

池の石清水を使い、前髪を落とし己の姿を池の水に映したという。

由来、池は鏡池と呼ばれるようになった、と街道書に有った。

 裏山の湧き水がしみ出して出来た池で、水道が普及するまでは地元の飲料水として

使用されたという。

街道を行く旅人も喉を潤したそうな。

すぐ先の旅籠桃花屋跡を過ぎて先で

旧道は国道から左手へ入り、道端には道祖神がおかれ、左手奥には明治天皇休息の碑、そし愛宕大神が祀られていた。

旧道はすぐに国道8号に合流するが、右手の山並み山頂は重機が入り山肌が

露出してるのは砕石場なのかな?

その先に「平宗盛胴塚」と書かれた案内板が立っている。

草深い細道を入っていくと平宗盛卿終焉の地と彫られた碑と石仏が二体置かれている。

側に立つ解説板には、

≪平家終焉の地≫

「平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲市である」と記され、

 平家最後の総大将平宗盛源義経に追われ、1185年3月壇ノ浦合戦で破れ、

平家一門はことごとく入水戦死した。

捕らえられた宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが追いかえされ、

再び京都に向う途中、ここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため、

平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。首級は京に送られ、

父子の胴は一つの穴に埋められ、宗盛親子の胴塚が建てられた」の趣旨が記されてた。

その横に「蛙不鳴池(かわずなかずいけ)及び首洗い池」の説明版があった。

「またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙不鳴池」とも呼ばれている。」

とある。

先ほどは義経元服の池、そして11年後の義経の宿敵・平家の総大将平宗盛の生涯を

終えた池。 同じ池ながら明暗を分ける栄華盛衰・・・・・

地域はすでに野州へ入っていたようで、案内板などには野州市名になっていた。

平宗盛胴塚」を後に桜咲く国道の左手を進み、光善寺川を渡ります。

渡った地域は野州市大篠原地区。

国道の右手土手下に江戸から126里目の「成橋の一里塚」標識があると

記されてるが、右手には歩道帯が無く、交通量も多いため危なすぎるし・・でパス。

左手に「←500m、国宝大笹原神社」と彫られた大きな社標が建ている。

街道書では2,30分ほど入ると大笹原神社で、本殿は室町時代に建築され国宝です。この地域は、良質のもち米が穫れることから、鏡餅の元祖をまつった「餅の宮」が

境内に建てられています、とあったが、往復小一時間、残念ながらこれもパスで足を

進めます。

右手国道越に見えた祠は村境の寒神だそうだが、何村との境なのか??

その先左手に長い堤防が見えてくるのは、街道書によれば、「源平盛衰記」に記された「西池」の篠原堤と呼ばれる堤。(逆光なので堤フォトが振り返り)

西池は「大篠原最大の用水池で、雄略天皇の頃(413年~)近江国に造られた

四十八個の池の一つと言われている。

堤下を歩き10分ほど行くと野州市小堤集落。

先の小堤の信号で国道を右手に渡り、すぐ先で右手の旧道に入り、騒音の国道に

ようやく解放された街道となりました。

旧道へ入って20分ほどいくと右手に寛政6年(1794年)建立の金毘羅大権現常夜燈、山灯篭と愛宕山大神が祀られ、その先で家棟川を渡ります。

家棟川(やのむねがわ)は、平成19年度の河川切下げ工事竣工までは天井川

「家棟隧道」で川の下を潜っていたという。

橋を渡ってすぐ右手に篠原神社の参道が続き、街道書には

社伝によると創建は村上天皇の御代、平将門平定の軍功によって、藤原秀郷の次男、

田原次郎千時が、栗太、野洲二郡の地を賜り、社殿を建立した、とある。 

ご本殿前まで進んでお参りが出来、何故かカミさんが何かを祈っていた。

篠原神社を後にし旧辻村を歩んでゆきます。

辻村はこの地が野州群から甲賀郡へ出る辻で有ったことに由来してるそうです。

いい雰囲気の旧辻村を行くと左手に愛宕大神が祀られ、

右手には、平安末期(12世紀)造立の「子安地蔵堂」がある。

街道書では、お堂には極彩色等身大の地蔵菩薩像が祀られ、安産祈願の子安地蔵として、近隣の信仰が篤いとあった。

(お堂内を拝見したが薄暗く、残念ながら地蔵尊は拝めなかった)

地蔵堂から5分ほど行った左手には「丸山・甲山古墳群」があり

「桜生(さくらばさま)史跡公園」になっている。

用水路の桜並木を愛でながら5分ほど進み、左側の「桜生公民館」屋根に銅鐸モニュメントが置かれてる街道書に有ったが、見つけられなかった。

先で川岸にさくら並木の小さな中の池川を渡ると、左手から国道から分岐した

市道が合わさり、

5分ほど行くと右手お屋敷は、先代は人間国宝藍染の殿っと卯技法を今に伝える、 

 「本藍染紺九」だった。

2,3分先左手に立派な鳥居が建ち、参道を入ると国道8号に面して、

稲荷神社が祀られている。

創建は不詳で、街道書によれば壬申の乱野州河原での戦死者を供養する

福林寺(廃寺)の守護神として948年(天暦二年)、伏見稲荷大明神を勧請した、

記されてる。福林寺は廃寺になったそうだが、稲荷神社は当地の氏神として存続して

いるという。

(境内に国重文の境内社の古宮神社本殿があったが、何故か写し忘れた様です)

稲荷神社鳥居から更に5分程歩くと小篠原公民館前に小篠原村庄屋苗村邸跡の

石碑が置かれていた。

更に5分ほど行くと右手に茅葺屋根の民家が見えてくる。

茅葺屋根の家は慶長元年(1596年)創業という、銘酒{暁}蔵元の「曙酒造」で

した。

曙酒造の先で新幹線のガードをくぐりると街道は左手へと続くが、

時刻もPM5:30過ぎ。

中山道、一日目の旅は此処までとしとし、そのまま直進して10分ほど先の

野州駅へ向かい旅の足止め。

近江武佐京口から約4里12km、7時間。寄り道小径は有ったとはいえ

なんとも超牛歩の旅人二人。無地に電車に乗れる駅へ到着です。

PM6:00、電車に乗り近江八幡の宿(ホテル)へ戻り、

汗ばむくらいの春の街道歩き一日目を終えました。  

2日目へ続きます。

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第38回 1日目・前編 武佐宿を後に

2年間の中断で旅を続けることが危ぶまれた街道旅。

コロナ騒動も少し鎮静化したかと見て、よし、旅へ出よう。

バタバタと鉄道切符、宿の予約などを済ませたが、関西はちょいよ天気が怪しい。

それでも5日後、4月5日には、よし行こうの旅立ち。

そんな老々夫婦の歩き記録の綴りです。

 

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、3年がかりで京の三条大橋へ到着。

歩き旅の楽しさを知ったカミさんの「次の旅はいつ?」に誘発され、

その秋9月には日本橋を旅立った中山道でしたが、またまた腹部大動脈瘤

心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、なんとか乗り越え
旅を続けてきた。そんな、じじばば道中ブログです*

(2016年9月17日 日本橋旅立ち)

てくてく足を進めて37回目、年号も令和と変わた
2019年11月には、江戸から66番目、123里25町(485.7km)、
近江の国・武佐 宿に到着足止め。
京の都へ、残すは11里半・47.1km、2回の旅。

近江国武佐宿、足止め)

傘寿を迎える2020年春の都到着を予定し、年を越したが、

思いがけないコロナ大騒動は、日がたつとともに大火になり、鎮静化、再び炎上の

繰り返し。
3回のワクチンも済ませ、ようやく落ち着きをとりもどしたこの春、

まだまだ予断は許されぬ中にも思い切って旅へ!(一大決心で)

2022年(令和4年)4月5日、一番バスにて駅へ向かい、電車、地下鉄と乗り継い東京駅へ。

新幹線は米原停車のAM7:33発、ひかり。

快晴の車窓からの見送りは富士の山。

神奈川・国府津付近

静岡/富士吉田付近

浜名湖

出迎えてくれた伊吹山

米原で乗換へ近江八幡駅へ。

手荷物をロッカーに預け、近江鉄道で一駅の武佐駅へ降り立ったのは、

午前11時でした。

今回の私たちの中山道の歩き旅は、近江の国中山道起点、東海道との合流地点で、

江戸より68番、草津宿東口到着を持って、中山道旅の締めとします。
本来なれば、東海道中山道をたどり、69番、大津宿を経て京の都三条大橋

達するのが正式な中山道完歩となるが、草津京都三条大橋間は東海道五十三次

歩き済みなので、敢えて中山道起点草津宿到着を持って、中山道の旅を締め括りとし、

京の三条大橋では、歩いたつもりの「大〆セレモニー」とします。

武佐宿から草津宿までは守山宿を挟んで約5里・21km強。

足腰に不安はあるが、カミさんが笑う「ペンギン歩き」よぼよぼ歩きでも、

一歩一歩足を運べば前へ進み、旅は出来る。

2022年(令和4年)4月5日 AM11:15

武佐駅前で旅立ちショット、第37回目の始まりです。

近江鉄道武佐駅前は街道の桝形、で少し先で左折して踏切を渡り旧西宿村へ

入って行きます。

快晴にめぐまれ、今はまさに春の街道歩き。

150mほど右手に寛弘8年(1011)創建の「若宮神社」がありました。

深い社叢に囲まれた「本殿」は一間社流造り、

御伽草子(おとぎぞうし)』の一寸法師などの『小さ子(ちいさご)』のルーツとされている小さな神様「少彦名命スクナビコナ)」を祭神としている珍しい神社です。

隣の「いばECO広場」の看板が建っているところは「伊庭貞剛翁邸宅跡」で、 
伊庭家は近江守護佐々木源氏の流れを汲む名家で、明治元年(1868)22歳で上京、

京都御所警備・大坂上等裁判所判事を経て同12年住友家に入社し、

後年は住友家総理事に就任したという。

約170m進むと、右側に火防の愛宕信仰になっている鎮火霊璽が祭られていました。

「鎮火霊璽」と彫られた石に、お札を張るところでしょうか、フタがあって、

しめ縄で護られている。

鎮火霊璽から約170m歩くと街道は右カーブし、西宿町交差点で国道8号に合流し、左折して歩道帯の無い国道をしばし進みます。

歩道のない国道を約700m歩くと六枚橋交差点があり、ここで国道と別れて左折し

て行くのが何故か勘違いをし国道を直進。

地域町名は昔、千人の僧で悪疫退散の祈祷をここなったことから千憎供町。

約400m歩くと湖東地方を流れ琵琶湖に注ぐ白鳥川に架かる千憎供橋を渡り

馬淵町(旧馬淵村)へ入ります。

橋を渡ると左側に妙感寺道標、側面には、「具足山妙感寺 従是七丁」とあって、

今、渡った道を直進すると、日蓮宗の古寺・妙感寺に至る。

数十m先に近江守護職佐々木氏頼の子、満高が子宝に恵まれづず、

この観音も毎夜一心に祈願したところ世継ぎが授かったといわれる、

高野世継観音道標が建っていました。

世継観音とは、東近江市永源寺高野町の紅葉でも知られた永源寺のことでした。

千憎供橋から約400m、Y字路分岐の馬渕町交差点があり、右の細い方か中山道

右手に立派な鳥居の神社の八 幡社が有ります。

参道口には往時高札場があり、鳥居左に「馬淵村高札場跡碑」があります。

社伝によると、奥州に出陣する源義家応神天皇の霊を勧請し武運長久を祈願したのが始まりとされる。

「本殿」は元亀2年(1571)焼失、文禄5年(1596)再建され、

檜皮葺の屋根三間社流造・一間向拝・建物は総丹塗で桃山時代を代表する華麗な

造りで、国 指定重要文化財になっている。

街道は旅をしてるな~の趣のある街並みをしばらく進むと、

右側に茅葺き屋根「奥野家」が建っていて、屋根にある白い置物は大きな貝殻が二個、なんの貝でしょう。???

以前、アワビの貝殻を乗せた茅葺屋根を目にしたことが有り、カラス対策という説と、貝は海のものから、防火の呪(まじない)と言うのを聞いたことが有った。

カラス対策には数が少ないので、火の守りかもしれませんね。

真向かいの家と家の間に地蔵堂が祀られていて、脇には道祖神地蔵尊も。

地蔵堂を過ぎて馬淵集落を抜けると一面の水田地帯。

東横関町交差点を渡り進むと横関集落が近づいてきます。

この辺り右手に江戸より125遍目の東横関一里塚が有ったそうですが、

今は消滅してるようです。

「東横関」集落に入ります。

往時、旧東横関村は立場で日野川(横関川)の渡しを控え賑わいました。

室町時代にはこの辺りに関所があり地名の由来になっている。

集落をしばらく進むと川の土手に突き当たり、街道は消滅しています。

日野川(「横関川」とも呼ばれていた)の右岸の土手上で、日野川渡し跡があり、

広重の「木曽街道六十九次」の武佐宿はこの舟渡を描いたといわれます。

日野川(旧横関川)は近江、伊勢の国境に連なる鈴鹿山系の綿向山に源を発し、

琵琶湖に注いています。

往時はここから渡しで対岸に渡ったといわれます、現在は450mほど土手を歩いて

上流の国道8号の「横関橋」まで行くが、工事個所が有り迂回して土手下道を歩き

横関橋へでました。

橋を渡ると蒲生郡竜王町

車両進入禁止になっている日野川左岸の土手を下流へ歩いて行くと土手脇に

小さな案内板があり「横関川渡し跡」とあり、渡しの川岸付近まで微かな踏み跡が

みられた。

文化3年(1806)「中山道分間延絵図」では「平城渡シ場、小水之節ハ舟ニ艘ツナギ合セ舟橋トナシ往来ヲ通ス」から、平常は舟渡り、水量が減ると川に杭を打ち止めた

二艘舟の舟の上に板を渡した舟橋を渡っていました。
ここには明治8年(1875)橋が架けられ、同19年(1886)無賃通行になり、

同26年には再架橋されていた。しかし道は中山道から国道8号となり、新道として

上流に昭和12年(1937)横関橋が架橋、渡し場に架けられた旧橋は2年後に

撤去されてたという。

橋を渡ると、蒲生郡竜王町旧西横関村で、右奥に西横関村の鎮守「若宮神社」が

あります。
創立年代は不詳ですが、履中天皇の御代との伝えから約1500年前と推測されて

いるそうです。

西横関村を行くと小さな川が有り、橋の右斜めに地蔵が並んで祀られていました。

西横関交差点で国道8号と合流、鏡に入ります。

横断した向い左角に「是よりいせみち」「ミなくち道」と刻まれた道標が建っていた。国道477号を南下すると水口・伊勢に通じる水口道になるそうです。

中山道は国道を西進して進むと、国道8号からいったん離れ左へ中山道は入り、

わずか400m間ほどだが,間の宿だった「鏡の宿」の集落の旧道に入ります。

「鏡」鎌倉時代の宿駅で,旧義経街道といわれた「東山道」(とうさんどう)

八十六の駅(うまや)のひとつ「鏡の宿」に位置し、古来より,京都を出立して

最初の宿でもあり、多くの旅人たちの休、泊の宿場でありました、と街道書にある。

江戸期は中山道制定によって「武佐」と「守山」の宿駅が置かれて宿場から

外されてしまったが,武佐宿と守山宿間がが約16kmと長かったため,

規模の大きな「立場」、「間の宿」として賑わい,特別に「鏡宿」と呼ばれることも

あったと云う。
又、武佐宿・守山宿・石部宿(東海道)の助郷としての役目もあったと街道書に

記されていた。
右側に「旅籠京屋跡」、すぐ先の石仏石塔群があり双体道祖神も見え、花が手向け

られ大事にされているようだ。

約50m歩くと鏡口交差点で国道8号に合流し、右側に愛宕山常夜燈が建って

いました。

交差点を渡って国道沿いに進むと右側に、旅籠・吉田屋跡があり、

70m歩くと、右側に旅籠・枡屋跡、さらに進むと、延宝3年(1675年)再建された

天台宗真盛派真照寺がある。

右側に中央にお札の貼られた愛宕大神石碑も建ってます。

愛宕大神から約20m歩くと、左側の空き地に、明治期に開校された徳化学校跡の標識が建っていました。
明治8年(1875)大願寺徳化学校が開かれ、鏡村・横関村の子供達が教育を受けられるようになり、同11年(1878)鏡神社東に校舎が完成し移転したと記されている。

東山道であり、かつ中山道だった街道は,国道8号線へと変貌してしまい、町並みに

往時の面影は残っていなく、緩い上りこう配の国道両側には看板だけの旧跡が続く。

道路際の広場奥に建てられていたのは「源義経宿泊の館跡碑」。

鞍馬で一途に平家滅亡を誓い剣術に励んでいた牛若(義経)は、承安4年(1174)

兄頼朝を尋ねる為、金売り商人吉次に頼み込み奥州の藤原秀衡の元に下向。
その夜のうちに鏡宿に入り、時の長者で駅長うまやのおさとも呼ばれる「沢弥傳」の

屋敷「白木屋」で投宿。
間もなく鞍馬から追って来た平家の侍達が、稚児姿の牛若を探していると聞き、

急ぎ髪を切り源氏の象徴である左折れ烏帽子を作り、ここで元服し源九郎義経

名乗ったという。
元服の際使用した盥(たらい)は、鏡神社宮司林氏が保管されていると街道書にある。

進行左側には、ブロック塀際に白井弥惣兵衛脇本陣跡があり、跡地に標板が建っていたようだが、写真は写してなかった。
隣は「元祖 林惣右衛門則之也」の添え書きのある江戸時代の「本陣跡」と

明治の「駐在所跡」の案内板が並び、その先には旅籠加賀屋跡が並ぶ。
林惣右衛門則之は、源義家の弟・新羅三郎義光の 末裔とされる。
駐在所は、明治14年に個人宅に設置されたものが、明治18年に当地に新築されたとのこと。

鏡は間の宿だったが、本陣・脇本陣も置かれ、特に紀州候(紀伊徳川家)の定宿であり皇族・将軍家名代・お茶壺道中等が宿泊、皇女和宮も本陣で休息されている。
右側に鏡神社の参道口があり、石段を登ったところに、左下の写真の

源義経 烏帽子掛け の松」という元服した源義経が烏帽子を掛けた松の幹がある。
明治6年(1873)の台風で折損したとされ、幹上2.7mを残し仮屋根をして保存されています。

さらに坂を上ると、左奥に室町時代に建立された鏡神社がありま

鏡神社参道口から約110m歩くと、左側に道の駅・竜王かがみの里があり、

ようやく昼食にありつけました。

ご多分にもれず中山道街道筋には。適当な食事所はほとんど見当たりません。

良く利用するコンビニのイートインもコロナで閉鎖中。

なんとかなるだろう、ちょいと通用しませんね。

私たちは、そなえて健康補助食品やチョコレート類を持参して、

歩きながら小腹を満たしてます。 

一日目の旅は後半へ。


神田川沿い江戸川公園 初冬の秋景色

紅葉便りで初めて知った都文京区の肥後細川庭園。

さっそく所用帰りに寄り道で、東京メトロ有楽町線江戸川橋駅下車。

庭園へ向かうは「神田川」沿いの道で、公園として整備され、

幼い子を連れたファミリィーで賑わっていた。

(写真はクリックで大きくなります)

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神田川は、東京都、井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ、

両国橋脇で隅田川に合流する、流路延長24.66kmの一級河川

というより、フォークソング、「神田川」で親しまれた川ですね。

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神田川に沿って続く「江戸川橋公園」

公園には散策路があり、名残りモミジなどの秋景色が続いていた。

川側には桜並木が続き、春には晴れやかな風景が広がりそう。

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公園の先には、椿山荘(裏手にあたるのかな)

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さらに先き、目白台台地の急傾斜地に「水神社(水神神社)」

鳥井後ろの大銀杏は推定樹齢600年という、

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生い茂りすぎて、今年バッサリ枝切り、それでも雄大な姿。

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花壇には冬の花シクラメンの原種品種などが可愛らしく咲いている、

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チョと珍しい花紋様ノビオラ

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帰りの通りすがり、ヘイ、コンニチワ、公園内遊歩道をノッシノッシと散歩する大亀

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体長、7~80cmくらいかな、ケズメリクガメというそうだ。

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冬晴れの温かな川沿い公園、子たちの明るい声が聞こえてる・・・ 完










 

知ってすぐに訪れた「肥後細川庭園」

東京都文京区、神田川沿いに、旧肥後熊本細川家の下屋敷跡があり、

現在は文京区管理の庭園として公開され、名残の紅葉を楽しめると知り、

丁度都内へ所用で出掛けるのでと、昨11日立ち寄りをしてきました。

庭園パンフ案内を引用、

「この地は江戸時代中期以来、旗本の屋敷だったが、後に徳川御三家の一つ、

清水家の下屋敷となり、また一橋家の下屋敷にも転じ、

幕末に肥後熊本54万石、細川越中守の下屋敷、抱屋敷となりました。

昭和36年に東京都の都立公園として開園し、後に文教区に移管された。」

とあります。

そんな庭園の一部を記録ブログアルバムにしてみました。

(写真クリックで大きな写真になります)

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江戸時代から品種改良を重ねて来た熊本独特の花「肥後六花」の中の肥後菊

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地形の変化を巧みに取り入れた池泉回遊式庭園、

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台地の湧水を取り入れた池、モミジの写り込みが美しい、

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冬の風物詩、雪吊り

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目白台台地の急傾斜を山に見立てた森へ踏み入る、

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イイギリの赤い実が美しい

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時をわすれ、歩き続けていたい肥後細川庭園。

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令和3年12月11日 東京都文京区 肥後細川庭園  完

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 (第十歩)

日光街道第九歩は、11月18日、PM4:40夕暮れの小山駅で足止めに。

師走にはいり、世間は気忙しさが増してくる時候が、明日はいい天気になりそう、

て再び日光街道歩きへ。

12月5日(日)前回足止めの栃木県小山市へ早めの電車を乗り継ぎ到着。

AM9:30 小山駅から旅立ち。

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駅前より、小山宿江戸口にあたる駅から南西へ約1,2kmの天満宮へ向かいます。

駅の西すぐ近くにあるのが、鎌倉時代創建という造土宗・常光寺。

1889年(明治22)からの20年間、小山町役場が置かれていたそうな。

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山門を入ると正面に二十三夜堂、本堂はその左手にあった。

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山門を入って右手に、六地蔵

街道書には、

小山市教育委員会指定文化財になっている阿弥陀如来坐像がある」記され、

寺の説明パネルも建てられていたが、有るのはその台座だったらしい石組台のみ。

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常光寺の説明板によると、
(この青銅の阿弥陀如来坐像は、寛延元年(1748)の作であるが、
慶応四年の戊辰戦争小山の戦いで、幕府軍の流弾が台座後部に命中し、
今もその傷跡をとどめている歴史資料で、境内にある。)とある。
修理、もしくはどこかの博物館か美術館に出張されていたか?

(調べてみても不明のまま)

常光寺を後に街道(県道265)を西へ十数分、小公園の一角に

享和3年(1803年)建立という天満宮と掲げた石鳥居が建ち、

天満宮・稲荷神社・雷電神社三社が合祀され天満宮が祀られてます。

門前通り辺りに土塁や矢来柵がり、小山宿の江戸口(南)であったという。

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お堂脇には嘉永3年(1850年)建立の十九夜塔(左)、宝篋印塔(右)がある。

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日光街道小山宿は、元和3年(1617年)以降に宿駅に指定されたと考えられ、
江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。

天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳によれば、

家数423軒、本陣は1軒、脇本陣は2軒、旅籠が74軒、宿内人数 1392人

小山宿は「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道日光道中)、壬生通り

結城道、佐野道、栃木道が交差する交通の要所であった。

江戸からの距離、20里2町20間(約79km)、「天下分け目の関ヶ原合戦」の

プロローグとなった地でもある。

天満宮前から改めて、小山宿へと入ります。

おっ、日光は近いね~

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宿内を15分ほど行き、街道書の通り左手に折れると、右手に鐘楼山門の待宝寺。

享保13年(1728年)、八代将軍徳川吉宗が日光社参時に休息所としたという。

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山門に掲げた木札には「弓削道鏡根本開基寺」とある。

道鏡の開基となると、奈良時代の開基の古刹ということだ。

弓削道鏡は、奈良時代の僧で、河内(大阪府)弓削郡(現・八尾市弓削)に生まれ、東大寺写経所の請経使から身を起こし、宮中の看病禅師となり、聖武天皇の娘・孝謙天皇(女帝・後の称徳天皇)の病気を呪法を用いて平癒させた。そのことから天皇の寵愛を受け、太政大臣禅師(人臣としての最高位)に任ぜられ、翌年には法王となり、天皇位をうかがうまでになった。
 しかし、称徳天皇が病死すると皇位を狙う陰謀の罪で下野国薬師寺別当として

流され、そこで没したとされる。龍興寺(下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある

という。

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梵鐘は、寛政4年(1792)に鋳造された、と街道書にあり、鐘楼門の鐘と思ったら、

境内の祠に安置されていた。

銘文に天皇の名有ったため、第2次世界大戦中の供出を逃れ、戦前に作成された

梵鐘としては、市内で唯一の鐘。

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街道へ戻りすぐ先、道を挟んで右手に??マークだった記念館。

調べてみると、「2003年に亡くなった小野塚イツ子さんは、江戸から続く商家で

醤油を造っていた老舗の当主で、所有していた土地・建物・預貯金・有価証券な

どの5億円相当を遺言で小山市に寄贈され、その一部を歴史遺産として保存をして

いる」との資料があった。紛らわしい「蛇」は関係ないそうな。

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50m程先に赤い燈籠の並ぶ須賀神社参道と案内板が建ち、

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欅や銀杏並木、百基の朱塗り灯籠が並んでいる須賀神社への長い参道が続いてます。

一の鳥居。二の鳥居

 

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参道をたどると、国道4号を越えた北側に須賀神社が鎮座しています。

社伝によれば「平将門の乱」を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が天慶三年(940)に

京都・八坂神社を勧請し、小山城の鎮守とした。

元は小山城内にあったとされ、江戸時代の初期に小山藩主・本田正純によりこの地に

移された。

三の鳥居。

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かっては牛頭天王あるいは祇園社と呼ばれた神社で、なかなかの大社である。
 神社の由緒によれば、上野国の横領使・藤原秀郷天慶の乱に際し、

日夜素戔鳴尊(すさのおのみこと)に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、

天慶3年(940)4月、素戔鳴尊を祭神とする京都の八坂神社(祇園社)から分霊を

勧請し、北山の地(現小山市中久喜)に祀ったのが始まりとされる。

神門手前右手の藤原秀郷公碑

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平治年間(1159-60年)に小山城を築いた小山政光は、城の鎮守とし、以後小山氏累代の崇敬社となり、小山66郷の総社として厚く信仰された。

神門、奥正面に拝殿、本殿。

神門には平成26年 奉斉の神像が祀られている。

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徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉征伐のため会津に向かう途上、下野国小山に着陣した。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、三成打倒で評議は一決し、大返しとなった。これが世に言う「小山評定」である。

市観光パンフによれば、

軍議は、豊臣秀吉子飼いの福島正則の「内府殿にお見方致す。」の一声で決まった。

会議は、常に声の大きなものに支配される。福島正則の一声で三成打倒の評議が一決したのである。また、堀尾忠氏のアイデアを盗んで自身の居城である遠江掛川城を家康に差し出すと言明した山内一豊がその後出世の一途を辿ることになる。

小山評定は小山城内の須賀神社の境内で行われ、現在の須賀神社の境内には「徳川家康公・小山評定之碑」が置かれている。

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須賀神社の東には天台宗妙建寺。

本堂は享保年代再建だそうだが、補修工事中の様子。

格天井には百人一首が描かれてるという。

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この先国道沿いに、北へ200m程行くと小山市役所があり、

慶長5年(1600)会津上杉氏攻撃のため小山に滞在していた徳川家康が、

伏見城鳥居元忠からの知らせで石田三成挙兵の報に接し、

大返しを行った小山評定場所は、現小山市役所の場と言われ、

その跡を示す標柱が市役所前の植え込みの中に立てられている.

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先ほどの須賀神社に大返しを行った際には、必勝を祈願して西に向かった、

の碑が須賀神社に有りました。

更にその先に小山城跡の一部をしめる城山公園があるそうですが、

街道へ戻ります。

 

街道に戻り、この先は駅前交差点前までが小山宿の中心であったようで、

本陣や問屋などがあったとされるが、現在は商店やマンションなどの

ビルが林立し、当時の面影などほどんととどめてはいない。

街道へ戻ってすぐ左手に「明治天皇行在所」の碑、その奥に唐破風の玄関を残している家があるが、ここが若松脇本陣跡であった。

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奥の塀前に石碑らしきものが三個あり、何やら文字らしきもの見えるが、

すっかり風化し判読はできなかった。

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道路を挟んだ向かい側の「きもの・あまのや」辺りが控え本陣(本陣、脇本陣の控え)跡である。

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すぐ先の「常陽銀行」辺りが問屋場跡であったという。

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駅前上町交差点を過ぎて、右手奥の寺院らしき屋根が見え、向かうと

永仁5年(1297)創建と伝わる時宗の寺光照寺

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光照寺」の墓所には新政府軍が小山宿で戦った戊辰戦争で戦死した、

新政府軍笠間藩士の墓があった。

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小山での3度に渡る幕府軍と新政府軍の戦いは幕府軍優位のうちに終わり、
次の戦いを宇都宮へと移すことになる。

街道へ戻った付近に先ほどの須賀神社が鎮座していたとい元須賀神社が、

街道書にあるが、見当たらない。 過ぎてしまったかな?

須賀神社付近が日光街道の小山日光口(北口)で有ったようで、

小山宿を後にしたことになる。

100m程先右手に、嘉祥2年(894年)に建立という天台宗興法寺。

小山氏代々の祈願所として城内に置かれたが、江戸時代に移転したという。 f:id:hansui:20211207071444j:plain

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 境内に建つ十三層塔は、かつて数百年間、浅草の浅草寺山内に安置されていたが、

古河市須藤家の大庭園に移されえいたのを寄進され、境内に安置されましたという。

なぜ須藤家に移されたのか???不明。

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境内にある地蔵尊には戊辰戦争「小山の戦い」の被弾跡があるそうでしたが。

写し忘れてしまった。

興法寺の先、すぐ右手が貞応2年(1223年)、小山城主の小山朝政が

鬼門守護のため京都の愛宕神社より勧請して創建されたという愛宕神社

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風化が進み丸みを持った狛犬天明5年(1785年)に奉納されたという。

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神社のすぐ先にイタリアンレストランがり、時刻もまもなく正午で早めの立寄り。

ランチセットで1時間ほど足休めもかねて過ごし再び街道へ。

20分ほど足を進め「第一奥州街道踏切」と銘打った両毛線踏切を渡り、

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踏切を渡ると旧喜沢村地域に入り、1kほど歩くと街道書に、道を挟んだ右手

に薬師堂と記されたお堂があり、境内に道標を兼ねた念仏供養地蔵尊があると

記されてるが、参道が見つけられず通り過ぎてしまったようだ。

さらに100m程先左手に日枝神社の社標があり、車の行き来を見計らい、

それっと国道を渡って参道へ。

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参道には欅の大木が何本かあり、樹齢400年以上という。

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参道を7,8分行くと参道は国道4号で分断され、神社境内は国道の先あった。

国道4号は旧奥州街道であった、との説があります。

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日枝神社は旧喜沢村の鎮守で、創建年代は不詳という。

この社殿のある場所は、小山城の出城の喜沢砦で小山城廃城後の砦の跡地に、

社殿が建てられたそうで、社殿の背後の鬱蒼とした森には土塁が残っているという。

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神社を後にし街道へもどり200mほど行くとを二股の「喜沢の追分」に着く。

喜沢追分の分岐点には、男體山と大きく刻まれた道標や、明治建立の馬頭観世音、

日清日露日支出征馬碑などがある。

この道標は、一時期日枝神社に移設されていたが、平成31年に百数年ぶりに

元の位置に復元されたといい、「右奥州」「左日光」と表示されている。

街道書には日枝神社にあることになっていたが、神社では見つけられなかったわけだ。

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街道書を見ると、左日光とは、北西に斜めに進む壬生道(県道18号線)で、

先で日光例弊使道に合流し、今市を経て日光に至るという。

奥の細道松尾芭蕉は左手壬生道へ入っていったそうです。

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分岐右の道はすぐ先で国道4号に合流し、街道は20m程先でさらに右手へ分岐する

細い道に入ってゆきます。

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いかにも街道らしい、一車線くらいの細い道。

街道は次第に東北線東北新幹線の高架に沿って進むようになってゆく。

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細い街道に入り12,3分行くと、左手雑木林の中に塚のようなものがあり、

街道書では「喜沢の一里塚の西塚」とあったが、説明、案内板など何も無し。

江戸から21番目の一里塚で、塚の木は榎だったそうです。

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右手の空き地にも盛り土があったが、東塚の名残かもしれません。

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小山喜沢から小山羽川地域に入り、しばらく先で右手を見ると、お城造りの家?

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追分から鉄道沿いを30分ほど、新幹線通過の轟音を聞きながら足を進めると、

街道は小さい公園の少し先の二股を、左の細い道に入り国道4号に合流して、

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合流より先が江戸から13番目の新田宿(しんでんじゅく)江戸口(南口)の様で、

新田と書かれた行灯型標識があり、電柱の無いすっきりした国道が続いていた。

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新田宿は、江戸・日本橋から数えて13番目の宿場。

宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619)以降は宇都宮藩、

元和8年(1622)以降は古河藩、貞享2年(1685)以降は幕府が担った。
 天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣 1軒、脇本陣 1軒

 旅籠 11軒で、宿内の家数は59軒、人口は244人であった。

10分ほど行くと左手に四脚門を構えた屋敷は、青木本陣跡で、

現在も青木家の方がお住まいの様子。

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本陣と書かれた木札が掛っていた。

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街道沿いの家には往時の屋号を掲げる家々があり、広い敷地を構えている。

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この先で幕府代官屋敷跡の表示板が建っていて、左手に入ると

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左手奥には、安政4年(1857)建立の羽川薬師如来堂があり、

南側にこの地域の天領を支配した幕府代官陣屋があったそうな。

薬師如来様は、厨子に祀られ春秋の彼岸の中日に拝顔できる、と説明板にあった。

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堂前に十九夜塔、雨引観音塔はともに女性の守り神と仏。

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墓地の一角に大きな墓苑は本陣家一族かな?

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街道に戻り100m程先の国道右手に、鳥居と赤い燈籠も立ち並ぶ

橿原(かしはら)神社参道が奥へ伸びている。

国道は車往来が激しく、信号や横断歩道帯もないため見送ったが、

江戸時代までの新田宿の氏神は星宮神社であり、明治5年、九州の宮崎神宮より

勧請して橿原神社となった、と街道書にはあった。

火災により焼失、社殿は大正3年に再建されたとのこと。

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5分程先銅市金属工業の角を左折して、すぐ右の細い道が旧街道だそうで、

この辺が新田宿の日光口(北口)で、旧日光道中の羽川石仏群がある

寛政12年(1800年)の道標を兼ねた馬頭観世音には「左おざく道」
宝暦2年(1752年)の供養塔には「左おざく・こくふんじ」と刻まれている
おざくは現在の鹿沼市石裂(おざく)のこと、と街道書にあった。

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 暫く一車線ぎりぎりの細い道を行くと県営羽川住宅にあたり,旧街道は消滅で

右折して再び国道4号へ。

100m程先で再び左折すると旧街道となるようだが、

街道書を見ると、しばらくは単純な歩きの道のようなので、時刻も夕暮れ4時少し前。

国道をこのまま進み、

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小山市と分かれて、日光道中の14番目の宿場・小金井宿のある下野市へ入り、

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 600mほ進んで駅入り口で右折し、今日の街道歩き旅は小金井駅でフィナーレへ。

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電車を乗り継ぎ、とっぷり日の暮れたPM6:30帰宅。

 

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第九歩)の2

日光道中第九歩、続きを歩きます。

時刻はPM1:20,間々田駅入り口交差点だが、間々田宿中心部はもう少し先。

間々田j宿中心部を抜けて、約7km先の小山宿を目指すことにし足を進めます。

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こんにちは、単独行の旅人がすたすた追い越して行く。

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おつ、黒板塀に見越しの松、門を構えた大きな屋敷があた。

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道路を隔てた東側に大きな蔵を構えた家は、主

屋・米蔵・肥料蔵・土蔵・表門の5棟が、国登録有形文化財に登録されている

小川家住宅。

江戸期は乙女河岸において肥料問屋「車屋」を営んでいたが、明治末期に

日光街道国道4号線)沿いに移転し、大半は当時の建屋だが、

一部は乙女河岸から移築したと考えられ、表門以外は、建築時期や棟梁を確認でき

る貴重な近代和風建築としての価値も高い建物だそうです。

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蔵の屋根瓦、乗せ方が変わってるね、蔵二つの屋根瓦をつないだか?f:id:hansui:20211202065338j:plain

100m程先道の東側に琴平神社

すこし手前に、日光街道中間点にあたる,「逢いの榎」が有ったようだが

見渡せど見つけられないな~・・

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慶安4年(1651年)徳川家光公の亡骸が日光へ向かう折り、

安置所が授けられたという龍昌寺。

江戸時代に住職が、疫病退散と雨ごいを願い、間々田の蛇祭を発案したという

伝承がるという。

(間々田の蛇祭りとは、毎年5月5日に藁で作った長さ20m近くの蛇体を子供たちが 「蛇がまいた(ジャガマイタ)、蛇が巻いた、4月8日の蛇が巻いた」と囃しながら

 練り歩き、 各町内の蛇が間々田八幡宮に集合し、神事や蛇の水のみ行事を行い

 各町内に散会する伝統行事、と間々田案内文にありました)

山門は「赤門」、境内に「寝起不動尊」があるそうですが、立ち寄らずに。

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龍昌寺を過ぎて100m程、ここから電柱が無い、すっきりした街並みになりました。

示すものは何も無かったいが、間々田宿の江戸口だたのか?

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すぐ左手の金網フェンスに囲われた空き地に、間々田宿問屋場の解説板が建っていた。

上原家が務め名主を兼ねていたという。

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解説板による間々田宿案内には、

天保14年(1843年)の「日光道中宿村大概帳」によれば、

間々田宿 江戸から11番目の宿場町 江戸と日光との中間の位置にあり、

家数 175軒 人口 957人 旅籠 50軒 本陣 1 脇本陣 1」とあった。

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問屋場跡の先左手にも解説板が建ち、青木家が務めた間々田宿本陣跡。

建坪は157坪で、明治天皇ご巡幸の折り休息所を務めたそうな。

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本陣跡に付近に脇本陣が有ったようだが、それらしき痕跡、案内板などは

見当たらない。

5分ほど先に間々田八幡宮の社標、

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地元の方が、今紅葉が綺麗だよ、と教えていただき左折。

二基の燈籠、一の鳥居をくぐって間々田八幡宮へ長い参道が伸びて行く。

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ゆるく右手に大きく弧を描いて参道が続き、

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参道を10分ほど行くと木立の森と二の鳥居で境内へ。

鳥居右脇の松は源頼朝が戦勝祈願をして植えた松と伝わる松。

ただし現在は三代目。

自然豊かな境内はに2万坪にも及び、一部が『間々田八幡公園』として

開放されている。

神社紹介文によると

「境内には八幡古墳群とよばれる大小様々な墳丘が点在し、古くからこの地が思川流域に発展した文化圏の一拠点であったことが窺えます」とあった。

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振り返り二の鳥居

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石畳のゆるい下り山道を奥へ進すむと、一旦石段を下って境内へ。

周辺の紅葉が見頃で、美しい。

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石段を下ったところは小川と弁天池とがあるそうだが、何やら工事中で空堀に。

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おっ、最近TVバラエティで放映されてた「無事帰るちゃん」だね。

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空堀になった弁天池側に祀られてるのは、厳島神社の分社。

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ご本殿は石段を登てお参り。

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石段を上がると御神殿。江戸時代に焼失し社殿は1851年に再建されたという。

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すっかり老いてきたかな、愛嬌のある狛犬

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案内の中に、

「5月5日に開催される祭り『間々田のじゃがまいた』(蛇まつり)は、平成31年

 国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 15mを越える7匹の蛇が一堂に集う様は圧巻で、新緑香る神社の境内は毎年多くの

 見物客で賑わいます。」とある。

通ってきた龍昌寺の江戸時代に住職が、疫病退散と雨ごいを願い、間々田の蛇祭を

発案したという伝承がるというが、蛇祭は間々田八幡宮の祭りとして

伝わってるということなんでしょうね。

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境内の紅葉を愛でて、参道を戻らず街道へ方向へ向かうと、

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街道へ戻る手前右手に浄光院の案内版が有り、

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奥に鐘楼門の浄光院がある。

本堂は安永4年(1775)に再興されたもので、境内には観音堂や江戸時代の石造仏などがあるというが、立ち寄らずに足を進めます。

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街道へ戻ると道向う右手に行泉寺がり、このあたりが間々田宿日光口だったようだ。

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味気ない長い国道歩きが30分ほど続き、左手に「古墳のまち千駄塚」の看板で、

浅間神社への参道が奥へ続いている。

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参道脇には覆屋内に青面金剛庚申塔天保15年(1844年)建立という

馬頭観音像が祀られていた。

浅間神社は千駄塚古墳(円墳)の上に鎮座しているそうだが、先を急ぎ立ち寄らず。

古墳(円墳)は、県内有数の規模を誇る円墳で、高さは約10m、直径は約70mにもなる

という。

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10分ほど足を進めると立派な長屋門があった。

f:id:hansui:20211202072851j:plain5分程先左手一帯は西堀酒蔵。

「若盛」とか「門外不出」という銘柄を持ち、大正時代の建物が残り、

国の登録有形文化財に指定されている。

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銘酒「門外不出」か試飲ができるそうだが、う~ん、今日は我慢だな・・・

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300m先で国道4号は左手に分かれて、街道は直進で小山市街地へ入ってゆく。

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国道との分岐地点には信号、横断歩道が無いとの情報があり、横断歩道のあるところで

手を挙げて、国道右手へ渡る。

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国道を葉挟んで左手に安房神社の鳥居と参道が伸びていた。

PM3:30、日没までには小山駅へと先を急ぎ、立ち寄らずに行きます。

街道書によると、安房神社は千葉県館山市には安房国一之宮を祀る人々の一部の人々がこの地へと移り住み、神を祭ったのが始まりとも言い伝えられているそうです。

調べた社伝によると、

崇神天皇代の創建であり、仁徳天皇代に再建されたと言われる。

 『延喜式』には「阿房神社」として記されている。

 939年、藤原秀郷平将門討伐に際して戦勝を祈願し、社領を寄進したとも伝え

 られる。中世には粟宮と呼ばれ、小山氏・佐野氏・結城氏・古河公方などの崇敬を

 受けた。」とあった。

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安房神社のすぐ先で国道と分かれ、直進道は県道265線。

おっ、レース鳩の市場があるんだ。

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15分ほど歩むと白壁の之も堂々とした長屋門を構えた屋敷。

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更に15分ほど行き、国道50号と高架で交差し、小山市街地へ。

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市街地へ入り300m程行くと左手に天満宮が祀られてる。

この辺りが小山宿の江戸口(南)で、土塁や矢来柵などがあったそうです。

参道の鳥居は享和3年(1803年)の建立で、境内には嘉永3年(1850年)建立の十九夜塔んどがありと、街道書に有った。

時刻は夕暮れ迫る、午後の4時。

次回の街道旅は小山駅からここまで戻ってのスタートとし、境内にへは寄らずに

足を進めます。

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記念館があるが? 後で調べてみよう。 

隣の看板は「すっぽん、マムシ 蛇しま」??

蛇を扱う専門店のようだが、あの→からは、記念館敷地内にあるのかな?

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小山市内も電柱が無く、すっきりした街並みが続いてる。

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先に天慶3年(940年)京都八坂神社を勧誘したと街道書にある「須賀神社参道口

 

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次回の旅でゆっくり参拝。

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5分ほど先左手に唐破風玄関が見えるところは、街道書では若松脇本陣跡と

なっている。

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次の信号駅前上町交差点は、右折でJR宇都宮線小山駅

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PM4:40夕暮れの小山駅、間々田駅から約13k、今日お旅は足止めに。

次回の旅は、天満宮まえ戻り、小山宿はスタートをすることにし、

天気に恵まれた晩秋の街道旅を足止め。

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電車を乗り継いで帰宅へ。

電車ドアガラス越に富士の山のシルエトがくっきりと見えた。

栃木県からでも富士の山は見えるんですね、!!

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日光道中二十一次、第九回目はフィナーレ。